子どもたちの国語力が、著しく低下している。
今に叫ばれ始めたことではなく、私が小学生くらいの頃から言われていた気がします。
「軽い読みものは読めても、文学が読めない若者たち」とか、「活字自体が読めない子どもが多くなっている」とか。
いつの時代も、大人は子どもを見て憂うものです。
私自身、子どもが3人います。もちろん、それぞれの国語力は異なります。
特に末っ子長男は、物語の解釈が独特です。
「え? それをそう取る?」と思うような不思議な感想を述べることがあって、親として若干心配になることも。
でもそれははたして、国語力の低下のせいでしょうか?
ネットなどで見てみると、どうもこのあたりが「子どもの国語力低下が引き起こす問題」だといわれているようです。
1.ボキャブラリーがとぼしい
2.自分の感情をうまく言語化できない
3.論理的な思考ができない
4.双方向の話し合いができない
なるほどなるほど。
なんでも「ヤバい」と言ってしまう今どきの子どもたち。
表現力がとぼしいなぁ、と感じてしまうのも分かります。
あれこれ憂いた結果、「社会が子どもをだめにしているのだから、大人がなんとかしなきゃいけない」というところにたどり着くのがセオリーのようです。
人はなにか問題があると、責任や原因を追及したがる生きものですので、無理もありません。
大人がなんとかしなきゃ、というのは一理あるとして、私はそもそものところでこう思うのです。
それ、本当に国語力が低下してる問題なのか?
これらの問題の根本にあるのは、本当に「国語力の低下」なのでしょうか?
誰かのせいにしたい方は、「小さいときに絵本を読んでやらなかったから」だとか、「家族との会話が少ないから」だとか、「スマホばかりで良い活字を読ませてやらないから」だとか、「親が本を読む姿を子どもに見せないからダメなんだ!」などなど……親を攻撃したがりますが。
「若者言葉が子どもをダメにしている」なんて意見も聞きます。
私は違うと思います。
今の子どもたちに足りないのは、「想像力」です。
国語力ではなく、想像力です。
相手の気持ちや痛み、悲しみ、喜び、幸せを感じ取る心。
自分の頭で思考して、自分以外のことを想像する力が足りないのです。
先生「お前たちの国語力はヤバいぞ」
生徒「え、ヤバくないし」
先生「キモいとか、死ねとか、簡単に使うんじゃない」
生徒「え、なんで? だってあいつ、マジキモいしキショいじゃん」
若者言葉って、いつの時代にもあります。
「最近の若いもんは……」と愚痴をこぼす図も、昭和の時代にはすでにありました。
大人の固い頭には受け入れがたく、拒否反応を示しがちですが、それ自体に罪はありません。
とはいえ、若者言葉=国語力低下の象徴、と考えるのは短絡の極みです。
言葉は時代とともに変化します。新しく出てきた若者言葉が間違っているなんて、誰にも言えません。
ただ、最近子どもたちがよく使っている「死ね」はいけませんね。
これは「死ね」を、他の言葉に言い換えられない国語力が問題なのではなく、それを口にしたときに「本当に死んじゃったらどうしよう」と想像できない心が問題なのです。
私は子どもの頃、いくら腹が立っても「死ね」を友達に言ってはいけない、という思いがありました。
それは多分、私がたくさんの生きものを飼っていたからでしょう。
大事に飼っている生きものが死んでしまうことは、なによりも恐ろしかった。
死んでしまえなんてとんでもない。親の仇じゃあるまいし、どんなに嫌な相手でも、本当に死んでほしいとは思わなかったわけです。
でも今の子どもは「死」が身近でなさすぎる。
自然がすぐ傍らになく、おじいちゃんおばあちゃんからも離れて暮らしている今の子どもが、「死」を目の当たりにすることは減りました。
痛いことも、寒いことも、飢えることも、昔から比べて格段になくなりました。
痛みが分からない。大事にしている人や生きものが死んでしまったときの、心が引き裂かれそうな悲しみを知らない。
だから簡単に「死ね」を口にできる。
「死ね」以外の言葉を知らないから選択できないのではなく、それを除外しようと思う心が足りないのですね。
そういった子どもたちは、仮に「死ね」と言った相手が、学校帰りに本当に車に轢かれて死んでしまったとしても、罪悪感を覚えることなんてないのかもしれません。
「キモい」と言われたら、相手がどんな気持ちになるか想像できない。
ひどく傷つくと明らかな言葉も選択出来る。
今の子には、色んな意味で想像する力が足りません。
これは国語力低下よりも恐ろしいことだと、個人的に思います。
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